泡沫の日々

気ままに更新。

はじまり

10年近くぶりにブログなんかを始めてみた。

理由はなんてことはなく、文章を書きたいから。
人に伝える文章の練習をしたい。いろんなことを記録したい。
そしてなにより暇なのだ!

家にPCがないのでスマホでちまちま書いていく。
数年前に購入してずっと眠らせていたBluetoothキーボードを引っ張り出してスマホと繋げてみたら、意外といいじゃない!
画面が小さいので目はやられるが、これくらいは仕方ない。

何事も初めが肝心とは思うけど何から書こうか。

ここには私のいろんなことを記していこうと思っている。
好きなもの、嫌いなもの、気になるもの、思うこと、日々のこと。

まずは私のこと。
関東に生まれ関東で育ち関東で就職したが今は転勤で関西に在住している。

ごく普通の家庭に育ち・・・と、少なくとも中学生までは思っていた。
まあそんなに変わった家庭というわけではなかったが、個人的にわりと波瀾万丈な20数年だった。

専業主婦の母、THE亭主関白の父、優しいけどチャランポランな兄、兄と11歳離れて生まれた私。
父は亭主関白というより、あれはもはやDV(言葉の暴力)だった。
私にだけはゲロ甘だったが、母と兄にはとてつもなく厳しかった。

今になって、父は自己愛性人格障害かなにかだったのではと素人ながら考える。
そんな父は2018年にたった一人、家族に見守られることなく亡くなった

私は高校卒業後はトリマーの専門学校に通いたかったのだが、ちょうどそのころ父の仕事が激減し、私も家計を助けるために就職することになった。

運良く一部上場企業に就職することができ、高卒なので安月給ながらも今まで安定した生活を送ることができている。

東日本大震災の1年後、21か22歳ごろに父の仕事が完全に0になった。
そして当時家族3人(兄は独り暮らし)で住んでいたアパートも耐震問題で立ち退きに。
私たち一家は家探しをはじめる。

その頃我が家には私が小学生のころから飼っていた犬もいた。
大人3人と犬1匹、家探しはなかなか難しい。
さらに母が脚が悪い上に地元を離れたがらないために近場で家を探さなければならない。

数ヵ月探しに探し回っていたところに、近所の賃貸マンションがフルリフォームをして分譲マンションとして売り出されているらいいとの噂を聞いた。
両親はこの話に飛び付いた。が、父は実質無職、母は専業主婦。
稼ぎ手は私しかいない。

当時の私は飼っていた犬の生活を守ることが何より大事だった。
そして頭もとてつもなく悪かった。
分譲マンションを私の名義で購入した。
35年ローン、1800万、頭金は母が捻出した10万円。
あまりに無謀である。

家を購入した数年後、私の愛した犬は亡くなった。
そのまた数年後に両親は熟年離婚した。
父が外で問題事を起こし、母が愛想を尽かしたのだ。
私も兄も大賛成だった。

父は離婚届を書いてすぐに家を出て、私が次に父と会ったのは静まり返った病室だった。

両親が離婚してから、私と母のマンション二人暮らしが始まった。
自ら望んで離婚した母だったが、やはり精神的に辛かったのかすぐに体調を崩し、私は家計だけでなく母の世話もしなければならなくなった。

そんな生活は2年と続かず、私は自己破産をすることにした。
購入した時から両親の離婚直後までは母がパートに出て家計を助けてくれていた。
だが母が働けなくなってからは私1人の収入しかなかった。
そうなってから徐々に毎月の支払いは滞ってしまったのだ。

売却業者や弁護士に依頼して2年近くかかってやっとこっさ売却・自己破産を完了した。
自己破産完了直前には私の転勤が決まり、ここぞとばかりに母を置いて関西に逃げ込んできた。

私が関西に行くことを決めてすぐ、役所から父が危篤と連絡がきた。
父は離婚後、生活保護を受けていたようだ。
母には言い出せず、父と不仲だった兄にも告げず一人で病院に行った。

冷たくなった父。
病院から聞かされた父の様子、心も身体もボロボロだった。
父を一人にしてしまった申し訳なさと寂しさと何とも言い難い気持ちでいっぱいで、ただ泣いた。

それからいろいろあって結局私一人で父の葬儀をして見送った。
生活保護を受けていた父は、小さな小さな壺に一部の骨のみ納められた。 

私が引っ越してから、母にも生活保護を受けてもらっている。
一人置いていくのは不安だったが、この制度は本当に本当にありがたい。
必要最低限のみだが、お金の心配もなくなり、担当の方がちょくちょく様子もうかがってくれる。
一緒に暮らしていたときよりも安心して過ごせている。
ただ、父のことはいまだに話せていない。

思ったより長くなってしまったが、私が関西に移住するまでの大きな出来事はこんな感じだ。
ほかにもいろいろあったがはしょった。
また機会があれば書いていこうと思う。